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参考>ニュース記事から スペインに日本征服を断念させた武力と知性

●本当に強かった日本 スペインに日本征服を断念させた武力と知性(上)大航海時代になぜ植民地にならなかった? 宣教師が伝えた「日本人に勝てる民族はいない」  ーーーzakzakニュースから
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教科書の日本史を見ても、なかなか分からないことがある。例えば、「日本が大航海時代に植民地にならなかったのはなぜか」という疑問もその一つ。この謎は、世界との関係の中に答えがありそうである。当時の欧州人が戦国日本をどのように見ていたか探ってみよう。

イエズス会のフランシスコ・ザビエルの報告には、以下のようにある。

「あらゆる民族の人々と話してきたが、日本人こそ一番良い発見であった。キリスト教以外の宗教を信仰する民族の中で、日本人に勝てる他の民族はいない」「人々の大半が読み書きの能力を備えている」「神の法を理解するのにとても便利」

同じく、イエズス会のコスメ・デ・トーレスは「彼らはとても賢く、スペイン人のように理想的に自らをおさめることができる」「彼らは、何でも知りたがるのである。世界中に彼らのような民族はいない」と評価している。

この時、イタリアはルネサンス円熟期である。

イタリア人宣教師、ニェッキ・ソルディ・オルガンティーノは「われわれヨーロッパ人は互いに賢明に見えるが、彼ら日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私は真実、毎日、日本人から教えられることを認めている。私には全世界中でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる」と語っている。

日本にあまり好意的でなかったアレッサンドロ・ヴァリニャーノでさえ、「道徳と学問に必要な能力について語るならば、私は日本人以上に優れたる能力ある人々のあることを知らない」と記録している。

欧州の上流階級出身者からなる宣教師の知的水準は高い。その彼らの見た戦国日本は、国としての水準が高かったのである。

宣教師は、日本の武力をどう見たのであろうか。

ヴァリニャーノのフィリピン総督宛ての書簡に、「日本国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服は困難だ」とある。

日本を、軍事力で征服することは不可能であるが、キリシタン大名を味方にすれば、キリシタン大名の兵力数千人の動員は容易で、スペイン本国派遣軍と合わせて1万人程度で、明の討伐可能と提案している。

彼らは、明が基本的に文人の国で戦争を厭(いと)うところが強く、国の中枢の人間が、贅沢を旨として戦いを好まないので、1万の軍で制圧可能と考えていたのである。

1596年10月、マニラ港からメキシコを目指していたスペインの豪華貨客船サン・フェリーペ号が台風のため土佐の浦戸湾において座礁沈没した。

現地の大名、長宗我部元親が豊臣秀吉に直ちに報告したところ、秀吉は積み荷を没収することを決め、現地に増田長盛(奉行職)を派遣する。増田奉行は事情聴取の結果、スペインは宣教師を尖兵として送り込み、侵略の手先として広大な版図を手にしたという事実認識を報告した。

秀吉は、スペインに「侵略の下心あり」として、サン・フェリーペ号の事件を契機として、マニラ総督の派遣したフランシスコ会宣教師や、信徒26人を磔(はりつけ)の刑に処する。

スペインが、秀吉に対して武力を持って報復しなかったのは、日本の武力が強大であったからである。


●本当に強かった日本 スペインに日本征服を断念させた武力と知性(下)高い技術水準、世界トップの鉄砲保有国 イエズス会は高価な硝石交易で大名に接近

戦国日本の武力は、欧州諸国と比べて、どうだったのか。

『鉄砲を捨てた日本人』(中公文庫)という著書がある米ダートマス大学のノエル・ペリン教授によると、1589年に英国がフランスに軍を派遣するに際して、英国全土から集めた銃の数は1100挺足らずであった。

だが、その14年前の1575年の長篠の戦いで、すでに織田・徳川は3000挺、武田は500挺の鉄砲を動員していた。鉄砲伝来(1543年)からわずかの期間で、わが国で鉄砲は大量生産され、性能も改善され、全国的に普及し、当時の「世界トップの鉄砲保有国」になっていたのである。

戦国日本に鉄砲がどれだけあったかについては「30万丁」との説もあるが、江戸太平の幕府軍役義務でも1万石に25丁の鉄砲で、全国総石高2000万石とすると、諸藩等合計で5万丁となる。欧米が正面から武力侵攻できる状態ではなかった。

これらの鉄砲は、戦国日本の技術力により支えられていた。

ペリン教授によれば、「日本の技術水準がその当時すでに高かった。日本の銅はヨーロッパの銅よりも良質とみられ、価格も安かった」「例えば、オランダ人は、日本銅をアムステルダムまで運んでなお利益を上げた」「英国は、ヨーロッパ随一の鉄製造国で、スペインは、…敵国英国から、鉄製大砲を苦労して輸入した。しかし、英国の東インド会社が1613年に日本に商館を開設し、鉄インゴット販売しようとしたが、日本では買い手が全く見つからなかった」「日本鉄に比べて品質が劣るとみなされた」という。

鍛鉄で作られた日本の鉄砲は、多量の火薬にも耐えた。

一方、火薬の原料である硝石の日本生産量は限られ、大量消費の戦国期は輸入に頼っていた。イエズス会は高価な硝石交易により大名などに接近する。

豊臣秀吉による九州征伐の行軍記録『九州御動座記』に、「宣教師から硝石樽を入手せんため、大名、小名はいうにおよばず、…己のしもべや…を南蛮船で(奴隷として)運ぶ」(徳富蘇峰『近世日本国民史』)とある。

東大史料編纂所『大航海時代の日本人奴隷』によれば、ポルトガルでは、人身売買には聖職者の署名付き証書が必要であったが、イエズス会は、この証書を発行している。

ポルトガル出身の宣教師、ガスパール・コエリョの1587年のローマ総長宛て書簡で、「パードレたちが、…奴隷証書を発行することから、商人たちは大きな不正を日本人奴隷売人とともに行っている」とある。高価な硝石と引き換えに奴隷が売られた。

コエリョは秀吉に明出兵計画を提案する。「今に見ておれ、太閤を海外遠征に引き込んで、さんざんな目に遭わせてやる」というコエリョの策謀を見抜き、秀吉がコエリョに叩き付けた五箇条の中に、「なにゆえにお前たちはお前の国民が日本人を購入し、奴隷としてインドに輸出するのを容認するのか」とある。

織田信長や秀吉らと会見し、戦国研究の貴重な資料となる『日本史』を記したイエズス会宣教師、ルイス・フロイスによると、『伴天連追放令』に際し、秀吉は「伴天連らは、…大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。…このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ」と述べている。


■記事:ないとう・かつひこ

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