ついに バチカン 動く!!
今日のニュースからひとつ。 ”バチカンが動く”(世界遺産はより早まるか??)
1)キリシタンに脚光
カトリックの総本山バチカンで、日本の「キリシタン」が脚光を浴びている。日本に強い関心を持つフランシスコ法王が、弾圧に耐えた歴史を「信徒の模範」とたたえ、長く保管されてきた史料について日本側との共同研究が始まる。明治期の「信徒発見」から来年で150周年。今も独自の信仰を保つ人々を「古いキリスト教徒」として再評価すべきだという声が出ている。
■史料1万点、共同研究へ
「偉大なことです。彼らは孤立し、隠れていましたが、常に神の民の一員でした」。フランシスコ法王は1月15日のスピーチで、日本のかくれキリシタンを称賛した。バチカンの公式見解を伝える「オッセルバトーレ・ロマーノ」紙は翌日付の1面で、「日本のキリスト教徒に学ぼう」との見出しを掲げた。
フランシスコ法王は、日本にキリスト教を伝えたザビエルと同じイエズス会。若い頃は日本での布教を希望するなど、日本への関心が高いとされる。
バチカン図書館は今年から、日本の人間文化研究機構などと協力し、キリシタン関連史料を調べる「マレガ・プロジェクト」を始める。史料は1万点。パシーニ館長は「キリシタン関連史料がこれほどまとまった形で見つかる例は日本にもない」と意義を語る。
プロジェクト名のマレガ神父はイタリア出身。1929年に日本に渡り、長く大分県で伝道した。多くの史料を集めて「豊後切支丹(ぶんごきりしたん)史料」を刊行したが、原本は見つかっていなかった。
2011年、図書館内に保管されていた包みから大量の日本語の史料が見つかった。これがマレガ神父の集めた文書だった。
パシーニ館長によると、図書館には未整理の史料を調べる職員が約10人いる。だがキリスト教の成り立ち上、ギリシャ語とラテン語が中心。アラビア語や日本語などの言語を担う「東洋担当」は1人だけで、研究は進んでこなかった。
それが、フランシスコ法王就任後の昨年11月、研究に関する協定が結ばれた。今後6年かけて目録作りや画像データのウェブ公開を進める。館長は「遠い国と文化交流を進めるという図書館の活動を法王は支えてくれている」と話す。
日本側代表の大友一雄・国文学研究資料館教授は「今回の資料のうち9割が未解明。弾圧がどのようなものだったか、研究の仕方が大きく変わる。世界の他の地域の宗教弾圧との比較、検討にもつなげられるだろう」と期待する。
■長崎、受け継がれる信仰
着物姿で正座した男性たちが、念仏に似た祈りの言葉を唱えた。終盤、それは賛美歌のような響きに変わった。欧州ではもう誰も歌っていない古い聖歌だ。
東シナ海を望む長崎県平戸市の生月島(いきつきしま)。昨年11月、壱部(いちぶ)集落のかくれキリシタンが唱える「歌オラショ」が、郷土博物館「島の館」で一般に公開された。
生月島はかくれキリシタンの信仰が今も残る。
16世紀中ごろ、イエズス会が布教を始めた。禁教令で「海が赤く染まった」という厳しい弾圧を受けても信仰は受け継がれた。
明治時代に禁教が終わっても多くは独自の信仰を捨てず、昭和初期には約1万人の島で8割がキリシタンだった。だが過疎や高齢化の中で、伝統を受け継ぐ人は減少している。今は島の人口6千人のうち、かくれキリシタンは約400人。世界で主流派のカトリック信者は300人だという。
信者の一人、舩原(ふなばら)正司さん(51)は「見つかれば殺されるという苦しい時代も、ご先祖は儀式を続けてきた。私たちも続けたい」と話す。「島の館」学芸員でキリシタン史を研究する中園成生さんは語る。「キリシタンの存在を、歴史的文脈でとらえなおす時期に来ている」
宣教師が日本から追放された後、キリシタンは「元通りでなければいけない」とラテン語の祈りの言葉を暗唱し続けた。特に、歌オラショは「日本に最初に入ってきた西洋音楽が保たれたもの」だという。
歌オラショの原曲であるグレゴリオ聖歌の譜面は、皆川達夫・立教大名誉教授が82年にマドリードの国立図書館で発見した。
昨年11月、この聖歌を指揮者の西本智実さん率いる合唱団がバチカン・サンピエトロ大聖堂でのミサで披露。弾圧を生き延びた歌が、カトリックの総本山に響いた。
長崎県は、生月島の人々にとっての聖地を含む「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指す。バチカンからは「登録を支援する」との手紙が届いているという。(生月島〈長崎県〉=石田博士)
■250年経て残る儀式、驚き アニバレ・ザンバルビエリ パビア大教授(宗教史)
弾圧を恐れて潜伏する信徒は現代でもイスラム諸国や北朝鮮にいる。しかし、日本のキリシタンは極めて組織化されていた。250年たっても、すべての儀式が残っていたのは驚きだ。今の「キリシタン」をキリスト教徒とみなすか否かについては議論が分かれる。仏教や神道の影響を受けているとされるためだ。だが、私は彼らを「古いキリスト教徒」と呼ぶべきだと考える。地域の文化と混じり合うことはしばしば起きる。法王でさえ、彼らを信徒の模範として語った。彼らをキリスト教徒とみなさない理由はない。
■法王のスピーチ(要旨)
彼らは17世紀はじめ、厳しい迫害を受けました。多くの殉教者が出ました。聖職者は追放され、何千人もの信者が殺されました。日本に司祭は残りませんでした。みな追放されたのです。
信徒の共同体は非合法とされながら信仰を守り、人目につかない場所で祈りました。子どもが生まれた時には父や母が子に洗礼を授けました。約250年後、宣教師が日本に戻った時、何千人ものキリスト教徒が公の場に出て、教会は再び栄えることができました。
隠れていても彼らは強い共同体精神を保ちました。洗礼が彼らをキリストのもとに一体としたからです。これは偉大なことです。彼らは孤立し、隠れていましたが、常に神の民の一員でした。教会の一員でした。私たちはこの歴史から、多くを学ぶことができるのです!
1)キリシタンに脚光
カトリックの総本山バチカンで、日本の「キリシタン」が脚光を浴びている。日本に強い関心を持つフランシスコ法王が、弾圧に耐えた歴史を「信徒の模範」とたたえ、長く保管されてきた史料について日本側との共同研究が始まる。明治期の「信徒発見」から来年で150周年。今も独自の信仰を保つ人々を「古いキリスト教徒」として再評価すべきだという声が出ている。
■史料1万点、共同研究へ
「偉大なことです。彼らは孤立し、隠れていましたが、常に神の民の一員でした」。フランシスコ法王は1月15日のスピーチで、日本のかくれキリシタンを称賛した。バチカンの公式見解を伝える「オッセルバトーレ・ロマーノ」紙は翌日付の1面で、「日本のキリスト教徒に学ぼう」との見出しを掲げた。
フランシスコ法王は、日本にキリスト教を伝えたザビエルと同じイエズス会。若い頃は日本での布教を希望するなど、日本への関心が高いとされる。
バチカン図書館は今年から、日本の人間文化研究機構などと協力し、キリシタン関連史料を調べる「マレガ・プロジェクト」を始める。史料は1万点。パシーニ館長は「キリシタン関連史料がこれほどまとまった形で見つかる例は日本にもない」と意義を語る。
プロジェクト名のマレガ神父はイタリア出身。1929年に日本に渡り、長く大分県で伝道した。多くの史料を集めて「豊後切支丹(ぶんごきりしたん)史料」を刊行したが、原本は見つかっていなかった。
2011年、図書館内に保管されていた包みから大量の日本語の史料が見つかった。これがマレガ神父の集めた文書だった。
パシーニ館長によると、図書館には未整理の史料を調べる職員が約10人いる。だがキリスト教の成り立ち上、ギリシャ語とラテン語が中心。アラビア語や日本語などの言語を担う「東洋担当」は1人だけで、研究は進んでこなかった。
それが、フランシスコ法王就任後の昨年11月、研究に関する協定が結ばれた。今後6年かけて目録作りや画像データのウェブ公開を進める。館長は「遠い国と文化交流を進めるという図書館の活動を法王は支えてくれている」と話す。
日本側代表の大友一雄・国文学研究資料館教授は「今回の資料のうち9割が未解明。弾圧がどのようなものだったか、研究の仕方が大きく変わる。世界の他の地域の宗教弾圧との比較、検討にもつなげられるだろう」と期待する。
■長崎、受け継がれる信仰
着物姿で正座した男性たちが、念仏に似た祈りの言葉を唱えた。終盤、それは賛美歌のような響きに変わった。欧州ではもう誰も歌っていない古い聖歌だ。
東シナ海を望む長崎県平戸市の生月島(いきつきしま)。昨年11月、壱部(いちぶ)集落のかくれキリシタンが唱える「歌オラショ」が、郷土博物館「島の館」で一般に公開された。
生月島はかくれキリシタンの信仰が今も残る。
16世紀中ごろ、イエズス会が布教を始めた。禁教令で「海が赤く染まった」という厳しい弾圧を受けても信仰は受け継がれた。
明治時代に禁教が終わっても多くは独自の信仰を捨てず、昭和初期には約1万人の島で8割がキリシタンだった。だが過疎や高齢化の中で、伝統を受け継ぐ人は減少している。今は島の人口6千人のうち、かくれキリシタンは約400人。世界で主流派のカトリック信者は300人だという。
信者の一人、舩原(ふなばら)正司さん(51)は「見つかれば殺されるという苦しい時代も、ご先祖は儀式を続けてきた。私たちも続けたい」と話す。「島の館」学芸員でキリシタン史を研究する中園成生さんは語る。「キリシタンの存在を、歴史的文脈でとらえなおす時期に来ている」
宣教師が日本から追放された後、キリシタンは「元通りでなければいけない」とラテン語の祈りの言葉を暗唱し続けた。特に、歌オラショは「日本に最初に入ってきた西洋音楽が保たれたもの」だという。
歌オラショの原曲であるグレゴリオ聖歌の譜面は、皆川達夫・立教大名誉教授が82年にマドリードの国立図書館で発見した。
昨年11月、この聖歌を指揮者の西本智実さん率いる合唱団がバチカン・サンピエトロ大聖堂でのミサで披露。弾圧を生き延びた歌が、カトリックの総本山に響いた。
長崎県は、生月島の人々にとっての聖地を含む「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指す。バチカンからは「登録を支援する」との手紙が届いているという。(生月島〈長崎県〉=石田博士)
■250年経て残る儀式、驚き アニバレ・ザンバルビエリ パビア大教授(宗教史)
弾圧を恐れて潜伏する信徒は現代でもイスラム諸国や北朝鮮にいる。しかし、日本のキリシタンは極めて組織化されていた。250年たっても、すべての儀式が残っていたのは驚きだ。今の「キリシタン」をキリスト教徒とみなすか否かについては議論が分かれる。仏教や神道の影響を受けているとされるためだ。だが、私は彼らを「古いキリスト教徒」と呼ぶべきだと考える。地域の文化と混じり合うことはしばしば起きる。法王でさえ、彼らを信徒の模範として語った。彼らをキリスト教徒とみなさない理由はない。
■法王のスピーチ(要旨)
彼らは17世紀はじめ、厳しい迫害を受けました。多くの殉教者が出ました。聖職者は追放され、何千人もの信者が殺されました。日本に司祭は残りませんでした。みな追放されたのです。
信徒の共同体は非合法とされながら信仰を守り、人目につかない場所で祈りました。子どもが生まれた時には父や母が子に洗礼を授けました。約250年後、宣教師が日本に戻った時、何千人ものキリスト教徒が公の場に出て、教会は再び栄えることができました。
隠れていても彼らは強い共同体精神を保ちました。洗礼が彼らをキリストのもとに一体としたからです。これは偉大なことです。彼らは孤立し、隠れていましたが、常に神の民の一員でした。教会の一員でした。私たちはこの歴史から、多くを学ぶことができるのです!
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